世界遺産ペルセポリス:アケメネス朝ペルシャの栄光と滅亡を伝える壮麗な都

イラン・イスラム国
登録区分文化遺産
世界遺産登録年1979年
登録基準(ⅰ)(ⅲ)(ⅵ)
その他の区分
公式テキストページ中巻18p
英文タイトルPersepolis

イラン南西部の広大な砂漠地帯に、かつてオリエントを支配したアケメネス朝ペルシャ帝国の栄華を今に伝える壮大な遺跡があります。

それが、1979年にイランで最初に世界遺産に登録されたペルセポリスです。

その名はギリシャ語で「ペルシャ人の都市」を意味し、かつてこの地がどれほどの権力と富を誇っていたかを物語っています。

このブログ記事では、ペルセポリスの歴史、壮麗な建築群、そこに込められたメッセージ、そして現在に至るまでの道のりについて、詳しく解説していきます。ペルシャ帝国の壮大な夢と、そのはかない終焉に思いを馳せてみましょう。

目次

栄光のアケメネス朝ペルシャ帝国とペルセポリスの誕生

ペルセポリスは、紀元前6世紀末にダレイオス1世によって建設が開始され、その後、クセルクセス1世、アルタクセルクセス1世といった歴代の王たちによって拡張・整備が進められました。

彼らが統治したアケメネス朝ペルシャ帝国は、エジプトからインド、ギリシャに至る広大な版図を誇り、多民族・多文化を包含する史上初の巨大帝国でした。

ペルセポリスは、帝国の主要な行政都市や防衛拠点ではありませんでした。

むしろ、新年の祭典や、各地の属国からの貢納を受け入れるための儀式的な首都としての役割を担っていました。そのため、その建造物群は、帝国の権力と威厳を象徴する、比類なき壮麗さを追求して建てられたのです。

建設には、帝国全土から最高の建築家、職人、芸術家が動員され、バビロニア、エジプト、ギリシャなど、各地の優れた建築様式や装飾技術が融合されました。

これは、アケメネス朝が多様な文化を受け入れ、融合させることで、新たな帝国文化を創造しようとした姿勢の表れでもあります。

ペルセポリスの壮麗な建築群とその特徴

ペルセポリスの遺跡は、岩山を背にした広大なテラスの上に築かれています。主要な建築群は、その規模と精緻な彫刻によって、訪れる者を圧倒します。

アパダーナ(謁見の間)

ペルセポリスの最も象徴的な建造物の一つが、アパダーナです。巨大な基壇の上に立つこの謁見の間は、72本の高さ約20メートルの円柱に支えられていました。

現在、その一部が残る柱は、その壮大なスケールを想像させます。

アパダーナの東側の階段には、「万国の門(Gate of All Nations)」へと続く大階段があります。

この階段の壁面には、世界的に有名なレリーフが彫られています。

レリーフには、ライオンと雄牛が闘う場面、そして帝国に服属する23の属州からの使節団が、それぞれの民族衣装をまとい、貢ぎ物を携えて行進する様子が描かれています。

これは、ペルシャ帝国の多元性と、その支配下にある世界の秩序と平和を象徴するものです。

万国の門(Gate of All Nations)

アパダーナの北西に位置する万国の門は、ペルセポリスの主要な入り口でした。

巨大な有翼の雄牛(ラムス)の像が門の両側に配され、その威容は、訪問者に帝国の権力と守護を印象づけました。

門の上部には、古代ペルシャ語、エラム語、バビロニア語の三言語で書かれた楔形文字の碑文があり、クセルクセス1世がこの門を建設したことを記しています。

百柱の間(Hall of 100 Columns)

アパダーナに次ぐ規模を誇る百柱の間は、その名の通り100本の柱で支えられた広大な空間でした。

王の謁見や宮廷の儀式に使用されたと考えられています。

ここにも、王の玉座や、ライオンと雄牛の戦い、そして武装した兵士のレリーフが残されており、帝国の軍事力と権威を示しています。

王宮群と宝物庫

テラスの上には、ダレイオス1世、クセルクセス1世、アルタクセルクセス1世といった歴代の王たちの宮殿や、広大な宝物庫が点在していました。

宝物庫には、帝国全土から集められた財宝が保管され、その富は計り知れないものだったと言われています。

これらの建築物は、全てが高度な石材加工技術と、各地の文化様式を融合させたアケメネス朝独自のペルシャ建築の精髄を示しています。

特に、柱頭の雄牛の像や、襞の入った衣をまとった人々のレリーフは、ペルセポリスの建築の象徴となっています。

ペルセポリスの滅亡:アレクサンドロス大王の炎

アケメネス朝ペルシャ帝国の栄華は、紀元前330年、マケドニアのアレクサンドロス大王の侵攻によって突然の終わりを告げます。アレクサンドロスは、ペルシャ帝国を征服する過程で、その象徴であるペルセポリスに侵入し、火を放ちました。

この放火の理由は諸説ありますが、ペルシャ戦争におけるアテネのアクロポリスに対するペルシャ軍の報復、あるいは単なる略奪と破壊のためであったと考えられています。この炎によって、ペルセポリスの木造部分は焼失し、石造りの基壇や柱の一部、そしてレリーフのみが残され、現在に至る廃墟となりました。

ペルセポリスの滅亡は、オリエントとヘレニズム世界の歴史の大きな転換点であり、その壮大な建築群が炎に包まれた光景は、権力のはかなさ、そして帝国の運命を象徴する出来事として、深く歴史に刻まれています。

世界遺産としての価値と保護

ペルセポリスは、1979年にイランで最初に世界遺産に登録されました。その登録基準は以下の通りです。

(i) 人類の創造的才能を示す傑作: アケメネス朝ペルシャの建築様式と装飾は、古代オリエント文明の最高の創造性を示すものです。
(iii) 現存する、または消滅した文明や文化の唯一の証拠: アケメネス朝ペルシャという巨大帝国の存在と、その文化、社会、宗教を今に伝える唯一無二の考古学的遺跡です。


また、その広大な遺跡は、真実性(Authenticity)と完全性(Integrity)が極めて高く保たれており、当時の姿を忠実に伝えています。

現代においても、ペルセポリスはイランの歴史と文化の象徴であり、多くの観光客が訪れる重要な遺跡です。

しかし、その保護には課題も伴います。気候変動による風化、観光客の増加による物理的な損傷、そして周辺地域の開発圧力などが挙げられます。

イラン政府や国際機関は、これらの課題に対し、遺跡の保存修復、観光客の管理、そしてモニタリング体制の強化など、様々な取り組みを進めています。

ペルセポリスが私たちに語りかけるもの

ペルセポリスを訪れることは、単なる観光ではありません。

それは、およそ2500年前に存在した巨大帝国の中心に立ち、歴史の息吹を肌で感じる体験です。

壮麗なレリーフが語る多民族社会の秩序、権力の象徴としての建築物、そしてはかなくも散った帝国の記憶――これらすべてが、訪れる者の心に深く刻まれます。

ペルセポリスは、人類が築き上げた文明の栄光と、それがどれほどはかないものであるかを教えてくれます。

そして、多文化共生というアケメネス朝の理想が、現代社会においてどのような意味を持つのかを問いかけているようにも思えます。

イランの砂漠にそびえ立つペルセポリスの遺跡は、今も静かに、過ぎ去った帝国の壮大な物語を語り続けています。

この人類共通の宝物を、私たちは未来へと大切に引き継いでいかなければなりません。

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この記事を書いた人

世界遺産ハントの管理人。

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