「文化的景観」とは?
はじめに:世界遺産の新たな視点「文化的景観」
ユネスコが定める世界遺産は、人類共通の宝として、その保護と継承が国際的に推進されています。
当初、世界遺産リストに登録されるのは、エジプトのピラミッドやフランスの大聖堂のような、人類が築き上げた壮大な建造物、あるいは手つかずの自然が広がる国立公園といった、明確な文化遺産や自然遺産が中心でした。
しかし、時代が進むにつれて、人類の遺産をより包括的に捉え、その多様な価値を認識しようとする動きが活発化しました。
このような背景のもと、1992年に「文化的景観」という画期的な概念が世界遺産条約に導入されました 。
これは、従来の文化遺産や自然遺産の枠組みでは捉えきれなかった、人間と自然が長年にわたって相互に作用し、共に形成してきた地域の価値を評価するための重要な一歩でした 。
文化的景観は、「自然と人間の組み合わせた作品」あるいは「自然と人間の共同作品」と定義され、その地域が持つ「顕著な普遍的価値(Outstanding Universal Value: OUV)」を評価する上で、新たな視点をもたらしました 。
この概念の登場は、世界遺産の捉え方を根本的に変えるものでした。
初期の世界遺産登録は、主に「記念碑的な概念」に基づき、有形の、比較的静的な建築物や歴史的都市景観に焦点を当てていました。
これは、OUVの初期基準が「芸術的達成」や「建築の発展」に重きを置いていたことからも明らかです 。
しかし、1987年からの「グローバル・スタディ」を経て、1994年以降の「グローバル・ストラテジー」への移行は、世界遺産リストがどのような遺産を反映すべきか、OUVのバランスの取れたリストをいかに実現するかという問いから生まれました。
特に、欧州の遺産やキリスト教文化遺産が過剰に代表されているという認識が強まりました 。
ジンバブエ、エチオピア、フィジー、バヌアツなど、非西洋圏で開催された地域別専門家会議では、非西洋の「生きた文化」、自然と文化の連続性、そして精神的な側面を含む無形の文化的要素の重要性が繰り返し強調されました 。
例えば、フィジーの会議では、南太平洋の島嶼国において海と陸の景観を分離することは不可能であるという指摘がなされ、文化的景観の妥当性が強く示されました 。
このように、1992年の「文化的景観」概念の導入は、単に新しいカテゴリーを追加しただけでなく、世界遺産条約が目指す「人類全体の遺産」の定義を拡張し、多様な文化圏の価値観を包摂しようとする、より成熟した国際的な文化保護の姿勢を反映しています。
これは、文化遺産が単なる過去の遺物ではなく、「生きた文化」や「持続可能な営み」の証としても評価されるようになった、という大きなパラダイムシフトを意味します。
今日、「文化的景観」が注目されるのは、それが単なる美しい風景に留まらないからです。
そこに暮らす人々の生活や生業、精神性、そして自然との持続的な関わりが深く刻み込まれた「生きた遺産」として、現代社会が抱える多くの課題に対し、貴重な示唆を与えてくれる存在だからです。
この概念は、人類の多様な文化と自然環境との調和を理解し、その知恵と価値を未来へと継承していくための鍵となります。
「文化的景観」の定義:人と自然の共創の証
ユネスコの世界遺産委員会は、「文化的景観」を「人間を取り巻く自然環境からの制約や恩恵、または継続する内外の社会的、経済的及び文化的な営みの影響の下に、時間を超えて築かれた人間の社会と居住の進化の例証である」と公式に定義しています 。
この定義は、景観が単なる自然の風景や人工的な建造物ではなく、人間と自然が長期間にわたって相互に影響し合い、共に形成してきた「作品」であることを明確に示しています 。
「文化的景観」という用語は、人間と自然環境の間における相互作用の多様性を表現するものです。
それはしばしば、持続可能な土地利用に関する独自の技術や、人と自然との間に存在する特殊な精神的関係を反映しています 。
その本質は、自然の地形、気候、生態系といった要素と、それらに適応し、あるいはそれらを利用しながら営まれてきた人間の活動(例えば、農業、漁業、居住、信仰など)が一体となって生み出された「自然と人間の組み合わせた作品」である点にあります。
その価値は、単体の文化財や自然物にとどまらず、それらが織りなす広がりを持った空間全体に認められるのです 。
この「文化的景観」の概念は、遺産保護の視点を、静的な「保存」から動的な「継承」へと転換させました。
定義に含まれる「進化の例証」という言葉は、景観が固定されたものではなく、時間とともに変化し、発展してきたプロセスを重視していることを示唆しています 。
また、「継続する内外の社会的、経済的及び文化的な営みの影響」という表現は、景観が現在もなお人々の活動によって形作られ続けていることを指し示します 。
日本国内の事例を振り返ると、文化的景観が文化財保護法に追加された背景には、「名勝」指定では「生産性や実用性が優先される生業空間における地権者の同意を得ることが困難」であり、その「継続を支える手段が極めて限定的」であったという課題がありました 。これは、従来の文化財保護制度が、変化を許容しない静的な「保存」に重きを置いていたため、人々の生活や生業が続く「生きた景観」には適応しきれなかったことを示しています。文化的景観の概念が強調する「人間と人間を取り巻く自然環境の間における相互作用の多様性」や「人と自然との特殊な精神的関係」は 、景観が単なる物理的な存在ではなく、人々の精神性や生活様式と深く結びついていることを浮き彫りにします。
このように、文化的景観の概念は、遺産保護の対象を、過去の遺物として「現状維持」するだけでなく、現在も営みが続く「生きた景観」として、その「進化のプロセス」や「継続性」を尊重し、未来へと「継承」していくという、より動的で包括的な視点をもたらしました。
これは、地域社会の活動自体が景観の価値を形成し続けるという認識であり、保護のあり方も、単なる規制だけでなく、地域住民の生活や生業を支える方策が不可欠であることを示唆しています。
「文化的景観」の3つのタイプ
ユネスコの世界遺産委員会は、文化的景観をその形成過程や特性に基づいて、以下の3つの主要なタイプに分類しています 。
この分類は、人間の文化が自然と関わる多様な様相を網羅しており、物理的な改変の度合いから、精神的な結びつきの深さまで、幅広い「人と自然の共創」を世界遺産として評価できる柔軟性を示しています。
これにより、西洋中心の「モニュメント」概念では捉えきれなかった、世界各地の多様な文化、特に非西洋圏の自然崇拝や伝統的な生業を世界遺産として認識する道が開かれました
意匠された景観(Designed cultural landscape)
- 特徴: 人間が意図的に設計し、創造した景観を指します 。美的、宗教的、あるいはその他の理由に基づいて、計画的にデザインされたものです。庭園や公園は、自然素材を使いながらも、人間の美意識や哲学に基づいて厳密に配置・形成されます。
- 具体例: 庭園、公園、宗教的な空間などが含まれます 。
有機的に進化する景観(Organically evolved cultural landscape)
- 特徴: 社会の様々な需要に応じて、自然環境と一体となって形成され、進化してきた景観です 。人間の活動が自然環境に影響を与え、それが景観として定着したもので、現在もその進化が続いている場合と、すでにその過程が終了している場合があります。このタイプは、人間の生活や生業が自然と相互作用しながら、時間をかけて徐々に形成されてきた景観です。
- さらに以下の2つに細分されます:
- 残存する景観(Relict or fossil cultural landscape): 過去のある時点で、その進化のプロセスが急激に、あるいは時間をかけて終わりを迎えた景観です 。例としては、古代の遺跡が自然景観に溶け込んだものなどが挙げられます 。
- 継続する景観(Continuing cultural landscape): 現在も伝統的な社会の中で活発な社会的役割を保持し、伝統的な生活手段と関係しながら、その進化のプロセスが進行中の景観です 。棚田や牧場のように、現在も利用され、今後も自然に影響を与え続ける景観がこれに該当します 。日本国内の文化的景観保護制度の課題として挙げられた「生産性や実用性が優先される生業空間」の保護の難しさは、まさにこの「継続する景観」の特性に起因するものです 。
- 具体例: 田園や牧場、伝統的な農村景観などが含まれます 。
関連する景観(Associative cultural landscape)
- 特徴: その土地の自然環境が、宗教、学術、芸術、文学などと深く結びつき、その地の民族や文化に大きな影響を与えている景観です 。自然そのものにほとんど手が加えられていなくても、人間がそこに文化的な意義や精神的な価値を付与している点が特徴です 。これは、文化が必ずしも物質的な創造物だけでなく、信仰、物語、美意識といった無形の要素によっても形成されることを強調しています。
- 具体例: 宗教上の聖地とされた山や、神話の舞台となった場所などが含まれます 。
以下に、文化的景観のタイプ別の特徴と、世界遺産に登録された具体的な事例をまとめます。
| タイプ | 特徴 | 具体例(世界遺産) |
|---|---|---|
| 意匠された景観 | 人間が意図的に設計・創造した景観。美的、宗教的、計画的な要素が強い。 | (例:ヨーロッパの歴史的な庭園、公園など) |
| 有機的に進化する景観 | 自然環境と人間の生活・生業が相互作用し、時間をかけて形成された景観。 | 残存する景観: (例:古代遺跡が自然に溶け込んだもの) 継続する景観: フィリピン・コルディリェーラの棚田群、日本の棚田など |
| 関連する景観 | 自然そのものにほとんど手が加えられていないが、宗教的、芸術的、精神的な価値が深く結びついている景観。 | ニュージーランド・トンガリロ国立公園(マオリ族の聖地)、紀伊山地の霊場と参詣道(信仰の山)など |
世界遺産に登録された「文化的景観」の事例
ここでは、文化的景観の多様性と、それが持つ多層的な価値を示す代表的な世界遺産を紹介します。
これらの事例は、文化的景観の「普遍的価値」が、単一の基準(例:芸術性、歴史性)では捉えきれない、多角的な側面を持つことを示しています。
それは、自然の美しさ、独自の技術、持続可能な生活様式、そして深い精神性や信仰といった、有形無形の要素が複雑に絡み合い、相互に作用し合うことで生まれる価値であり、世界遺産がより多様な人類の営みと自然との関係性を評価できるようになり、文化の多様性を尊重する国際的な潮流を具現化しています。
ニュージーランド「トンガリロ国立公園」:複合遺産としての先駆け
ニュージーランド北島中央部に位置する「トンガリロ国立公園」は、1990年にまず自然遺産として登録されました。
しかし、その後、1993年の世界遺産委員会において、その価値が再評価され、世界で初めて「文化的景観」として認められ、複合遺産となりました 。
この公園は、活火山が織りなす壮大な自然景観に加え、先住民族マオリ族にとっての聖地としての深い精神的・文化的価値が評価されました 。
マオリ族の神話や信仰と火山が密接に結びついており、自然の美しさだけでなく、その背後にある深い精神的・宗教的意味合いがOUVとして認められた象徴的な事例です。
これは、自然と文化が不可分に結びついていることを示す、世界遺産における複合遺産概念の先駆けとなりました。
フィリピン「コルディリェーラの棚田群」:持続可能な営みの象徴
フィリピンのルソン島北部に広がる「コルディリェーラの棚田群」は、「天国へ昇る階段」とも称される壮大な農業景観です 。
この棚田群は、数千年前からイフガオ族の人々が築き上げてきたもので、彼らは文字を持たないながらも、口伝えで独特の灌漑技術を親から子へと受け継いできました 。
特筆すべきは、棚田の上に広がる「いのちの森」と呼ばれる熱帯雨林が水源となり、棚田と一体となって持続可能な米作りの営みを支えている点です 。
これは、「有機的に進化する景観」の中でも特に「継続する景観」の典型例であり、人々の生活と自然環境が密接に結びついた「生きた文化」の証です。
この遺産は、単なる農業技術の遺産ではなく、その技術が世代を超えて継承される「生きた文化」であり、かつ「持続可能な土地利用」の模範例であるという多層的な価値が評価されています。
日本「紀伊山地の霊場と参詣道」:信仰と自然が織りなす聖地
三重、奈良、和歌山の三県にまたがる「紀伊山地の霊場と参詣道」は、日本の文化的景観が公式に認められた初の事例です 。
紀伊山地の豊かな自然の中で育まれた山岳信仰の霊場(吉野・大峯、熊野三山、高野山)と、それらを結ぶ参詣道(熊野古道など)から構成されています 。
この遺産は、単なる社寺や道の集合体ではなく、自然崇拝と浄土思想が融合し、信仰に関わる有形・無形の多様な文化的要素が自然と一体となって体現された「文化的景観」として高い価値が評価されています 。
特に、山や樹木、滝(那智大滝など)といった自然そのものが信仰の対象となり、「霊山」や「神木」として特別な価値を与えられている点が特徴的です 。
この遺産は、物質的な構造物だけでなく、その背後にある深い精神性や信仰といった無形の要素が、自然と融合して景観を形成していることを示しています。
「文化的景観」が持つ普遍的価値と未来への課題
文化的景観は、その地域で暮らす人々の生活や生業、そして風土との調和の中で形成されてきた、まさに「生きた遺産」です 。
そのため、持続可能な土地利用に関する独自の知恵や技術が凝縮されており、現代社会が直面する環境問題や地域活性化の課題に対する重要なヒントを与えてくれます 。
コルディリェーラの棚田群の事例が示すように、「いのちの森」を水源とする仕組みは、単なる生産活動だけでなく、生態系サービス(水資源の確保など)と伝統的な知恵が統合された持続可能なシステムを内包しています 。
ユネスコ事務局長が「文化は確実に持続可能性を可能にする」と述べ、文化を「人権、平等、持続可能性と同等の措置として、すべての開発効率向上の政策やプログラムに統合する」ことを求めているように 、文化的景観は、環境、経済、社会の持続可能性を統合的に考える上で、具体的なモデルとなりうる存在です。
文化的景観の保護は、単に景観を固定的に保存するだけでなく、その景観を形成し維持してきた地域住民の生活や営みを尊重し、次世代へと継承していくことが不可欠です 。
地域住民は景観の「担い手」であり、彼らの積極的な参加と協力が、効果的な保全管理の鍵となります 。
しかし、棚田や農村集落の景観が評価される一方で、「そのモデルとなる地域やその風景を形成する人間には、なんのフィードバックもない」という問題も指摘されています 。
これは、景観の持続可能性が、それを維持する人々の生活の持続可能性に直結していることを示唆しており、観光収益が地域に適切に還元されなければ、担い手がいなくなり、結果として景観も失われる可能性があります。
世界遺産登録は、その地域の認知度を高め、観光客誘致による経済効果をもたらす一方で、オーバーツーリズム(観光公害)という新たな課題も生み出しています 。
観光客の急増は、マナー問題、交通渋滞、騒音、ゴミ問題、違法民泊の増加など、地域住民の生活環境の悪化を招き、ひいては景観そのものの破壊につながる恐れがあります 。
例えば、ドイツのケルン大聖堂が近隣の高層ビル建設による景観破壊で危機遺産に登録された事例は 、都市部における文化遺産保全の難しさを示しています。
また、観光客の増加に伴う過度な開発は、伝統的な風景の「希釈」や「傷つけ」につながり、景観の「真正性」を脅かす深刻な問題です 。
さらに、観光業に過度に依存することで、他の産業が育たず、地域経済の安定性が欠ける可能性も指摘されています 。
オーバーツーリズムは、文化的景観が持つ「生きた遺産」としての特性、すなわち地域住民の生活や生業が景観を形成しているという点と正面から衝突します。
観光客が景観を「消費」する対象と見なすことで、その景観の「生産者」である地域住民の生活が脅かされ、結果的に景観の真正性や持続可能性が失われるというパラドックスが生じます。
これは、世界遺産登録がもたらす「名声」が、適切に管理されなければ、かえってその価値を損なう可能性があるという警鐘であり、観光と保全のバランスをいかに取るかが、文化的景観の未来を左右する最大の課題であることを示しています。
持続可能な観光の推進は、文化的景観の保全にとって喫緊の課題です。
観光収入が保全活動に還元される仕組みを構築しつつ 、地域住民の生活と景観の質を維持するための適切な管理計画と規制が求められます 。
未来への継承には、文化財保護法に基づく保護制度の活用に加え 、地域住民の意識向上、教育、そして多様な関係者(政府機関、専門家、市民、地元コミュニティ)との連携が不可欠です 。
おわりに:人と自然の絆を未来へ
ユネスコ世界遺産における「文化的景観」は、単なる美しい風景の集まりではありません。
それは、人類が自然とどのように向き合い、どのように生活を営んできたかを示す、地球規模の壮大な物語です。
これらの景観は、過去の知恵と現在の営みが織りなす「生きた遺産」であり、持続可能な社会の実現に向けた貴重な示唆を与えてくれます。
文化的景観の保護と継承は、地域住民の生活と密接に結びついており、私たち一人ひとりがその価値を理解し、尊重する「サステナブルな旅人」となることが求められます 。
人と自然の調和の証である文化的景観を、未来の世代へと良好な状態で引き継いでいくことは、現代社会に生きる私たちの共通の責任です。

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