多様な人類の宝を未来へ繋ぐ
世界遺産は、地球上に存在するかけがえのない文化遺産や自然遺産を保護し、未来へと継承していくための国際的な枠組みです。
その活動の中心にあるのが、ユネスコ世界遺産委員会が1994年に採択した「グローバル・ストラテジー(世界遺産リストの代表性、均衡性及び信頼性のためのグローバル・ストラテジー)」です。
この戦略は、世界遺産リストが真に地球上の多様な文化と自然の価値を反映し、その保護活動がより効果的かつ持続可能であるための指針となっています。
グローバル・ストラテジーとは何か?
グローバル・ストラテジーは、世界遺産リストの「代表性」「均衡性」「信頼性」を確保することを目的としています 。
これは、単に有名な建造物や自然景観を登録するだけでなく、世界各地の多様な文化や生態系、そして人間と自然の相互作用によって生まれた価値を網羅的に認識し、保護しようとするものです 。
この戦略が導入された背景には、当初の世界遺産リストがヨーロッパの記念碑的建造物やキリスト教関連遺産に偏り、生きている文化や伝統的な生活様式、特定の地理的地域(アフリカや太平洋島嶼国など)の遺産が十分に表現されていないという課題がありました 。
そこで、より人類学的で多角的な視点から遺産を捉え直し、記念碑的な視点から「人間中心の、多機能でグローバルな世界遺産のビジョン」へと転換を図ることが目指されました 。
グローバル・ストラテジーの主要な柱
グローバル・ストラテジーは、世界遺産条約の理念を実現するための「5つのC」という戦略的目標を掲げています。
1.信頼性(Credibility):世界遺産リストが、顕著な普遍的価値を持つ文化遺産と自然遺産の代表的かつ地理的に均衡の取れた証となるよう強化することです 。これは、単なる数の均衡だけでなく、地域やテーマ、時代ごとの多様な遺産を網羅的に評価し、登録していくことを意味します
2.保全(Conservation):世界遺産が効果的に保全されることを確実にすることです 。これには、気候変動、急速な都市化、過剰な観光(オーバーツーリズム)といった現代的な課題への対応が含まれます 。
3.能力構築(Capacity-building):世界遺産条約の理解と実施、そしてリストへの登録候補地の推薦準備を支援するための能力構築を強化することです 。特に、これまで十分に代表されてこなかった国々やカテゴリーからの推薦を促すことが重視されます 。
4.コミュニケーション(Communication):世界遺産に対する一般の認識、関与、支援を増進することです 。世界遺産検定のような取り組みも、この目標に貢献しています 。
5.コミュニティ(Communities):世界遺産条約の実施における地域コミュニティの役割を強化することです 。遺産の保護と管理には、専門家や政府機関だけでなく、地域住民や一般市民の広範な参加が不可欠とされています 。
文化的景観:人間と自然の共生を映す鏡
グローバル・ストラテジーの導入とともに、世界遺産保護の概念を大きく広げたのが「文化的景観」の概念です。
1992年、世界遺産条約において「自然と人間の共同作品」を意味する文化的景観が正式に認められました 。
これは、それまでの「文化遺産」と「自然遺産」という二分法では捉えきれなかった、人間が自然環境との相互作用を通じて形成してきた景観の価値を評価する画期的なものでした 。
文化的景観は、その形成過程や特徴によって以下の3つのタイプに分類されます 。
・意匠された景観(Designed landscape):人間が意図的に設計・創造した庭園や公園、宗教的空間など、美的な理由で造られた景観です 。
・有機的に進化する景観(Organically evolving landscape):社会の様々な需要に応じて自然環境と一体となって形成され、進化してきた景観です。これには、過去に発達過程が終了した「残存する景観」(例:遺跡が自然に溶け込んだ景観)と、現在も伝統的な生活手段と結びつき進化し続けている「継続する景観」(例:フィリピン・コルディリェーラの棚田群 や日本の棚田)があります 。
・関連する景観(Associative cultural landscape):自然そのものに大きな手が加えられていなくても、その地の自然環境が宗教、芸術、文学などと深く結びつき、民族に大きな影響を与えている景観です。ニュージーランドの「トンガリロ国立公園」は、マオリ族の聖地としての文化的価値が評価され、世界で初めて文化的景観として複合遺産に登録されました 。
日本でも、2004年の文化財保護法改正で「文化的景観」が文化財の一類型として加わりました 。
これにより、「紀伊山地の霊場と参詣道」が日本の文化的景観として初めて世界遺産に登録されるなど 、地域の人々の生活や生業、風土によって形成された景観の価値が公式に認められるようになりました。
それ以前は、棚田や里山のような「生きている景観」を既存の「名勝」制度で保護することは、土地利用規制の厳しさや、生業の継続を支援する手段の不足から困難でした 。
文化的景観の概念導入は、こうした課題を乗り越え、地域社会の営みそのものを遺産として捉える道を開いたと言えます。
世界遺産保護の現代的課題と未来への取り組み
グローバル・ストラテジーは、世界遺産を未来へ繋ぐための羅針盤ですが、その道のりには多くの課題が存在します。
オーバーツーリズムへの対応
世界遺産は多くの観光客を惹きつけますが、その集中は「オーバーツーリズム(観光公害)」を引き起こすことがあります 。
これにより、地域住民の生活環境の悪化(交通渋滞、物価高騰、騒音、ゴミ問題など)、文化遺産の破壊、経済の一極集中といった問題が生じます 。
これに対し、世界各地で対策が講じられています。
例えば、富士山吉田ルートでの通行料徴収や登山者数の制限 、ベネチアでの入域料導入 、EVバスの導入や徒歩周遊ルートの整備 、多言語案内やWi-Fi環境の整備 など、持続可能な観光を実現するための取り組みが模索されています。
地域住民の生活と観光客の体験のバランスをいかに取るかが、重要な課題です。
気候変動と自然災害への備え
気候変動は、世界遺産にとって喫緊の脅威となっています 。
海面上昇、異常気象、自然災害の激甚化は、多くの遺産の保全を困難にしています。例えば、イエメンの文化遺産都市での洪水警報 や、危機遺産に登録されたパレスチナの聖ヒラリオン修道院 など、紛争地域に加え、気候変動の影響も深刻です。
世界遺産の保全には、自然災害や火災に備えた計画的な施設の改修や、周辺環境を含めた支援の充実が求められています 。
暫定リストと新規登録の動向
世界遺産への登録には、各国が「暫定リスト」を提出することが義務付けられています。
これは、将来的に推薦を検討する遺産の目録であり、広範な比較研究の材料となります。2024年の世界遺産委員会では、日本から「佐渡島の金山」が新たに文化遺産として登録されました 。
これは、機械化が進む時代に高度な手工業による採鉱・製錬技術を継続したアジアにおける類を見ない事例として評価されています。
現在、日本の暫定リストには「彦根城」「古都鎌倉の寺院・寺社ほか」「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」などが記載されており、今後の登録に向けた取り組みが続けられています。
世界遺産リストの多様性を高めるため、ユネスコは各国からの推薦数を制限するなど、均衡の取れたリストを目指す方針を継続しています 。
まとめ:世界遺産は「生きている」遺産
世界遺産におけるグローバル・ストラテジーは、単なる過去の遺物を守るだけでなく、人間と自然の相互作用の中で「生きている」遺産を未来へと繋ぐための壮大なビジョンです。
文化的景観の概念導入はその象徴であり、地域社会の営みや精神性までもが遺産として認識されるようになりました。
しかし、オーバーツーリズムや気候変動といった現代的な課題は、世界遺産の保全に新たな困難をもたらしています。
これらの課題に対し、地域住民、専門家、政府、国際機関が一体となり、持続可能な管理計画を策定し、実行していくことが不可欠です。
世界遺産は、私たち人類共通の財産であり、地球の多様性を理解し、未来へと継承していくための学びの場でもあります。
世界遺産に触れることは、国際的な教養を深め、持続可能な社会の実現に貢献する一歩となるでしょう。

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