登録への新たな扉を開く「事前評価」の全貌
世界遺産は、人類共通の宝として未来に引き継ぐべき「顕著な普遍的価値(Outstanding Universal Value: OUV)」を持つ場所です。
その登録プロセスは厳格であり、近年、その質と健全性をさらに高めるための新たな仕組みが導入されました。
それが「プレリミナリー・アセスメント」、日本語では「予備審査」や「事前評価」とも呼ばれる制度です。
本記事では、この新しい制度の定義から導入背景、具体的なプロセス、そして未来への影響までを分かりやすく解説し、世界遺産に興味を持つすべての方にその重要性と魅力を深く理解していただくことを目指します。
世界遺産登録への新たな道筋:プレリミナリー・アセスメントとは
世界遺産登録は、単に美しい景観や歴史的建造物をリストに加えるだけでなく、その背後にある人類の歴史、文化、自然の営みを未来に伝える「生きた証」を保護し、継承するための国際的な取り組みです。
この崇高な目的を達成するため、登録プロセスは常に進化を続けています。
世界遺産登録プロセスの進化と「事前評価」の登場
世界遺産登録は、締約国が推薦書を提出し、ユネスコの諮問機関(ICOMOSやIUCN)による専門的な評価を経て、世界遺産委員会で審議・決定されるという、長期にわたる厳格なプロセスです 。
この複雑な過程において、より質の高い遺産を確実に登録するために、新たな仕組みが導入されました。それが「プレリミナリー・アセスメント」です。
この制度は、2021年の第44回世界遺産委員会拡大会合において導入が決定され、2023年より試験的に開始されました 。
特に注目すべきは、2027年以降に推薦される資産については、この事前評価を受けることが義務化される点です 。
これは、世界遺産登録への道筋が大きく変わることを意味し、推薦を検討するすべての国にとって、この新しいプロセスへの理解と対応が不可欠となります。
プレリミナリー・アセスメントの基本的な定義と位置づけ
プレリミナリー・アセスメントは、世界遺産登録推薦書の提出前に導入される「新しい工程」です 。
これは、締約国が推薦を希望する資産について、顕著な普遍的価値、完全性、真正性、そして保護・管理状況などに関して、諮問機関から技術的・専門的な助言を「事前に」受ける制度として位置づけられます 。
この制度は、いわば「本番の推薦」に臨む前の「模擬試験」のような役割を果たします。
推薦国は、諮問機関の専門家から具体的なフィードバックを得ることで、推薦書の内容をより洗練させ、登録の成功率を高めるための重要なステップを踏むことができます。
この事前評価の導入は、単に登録数を増やすのではなく、登録される遺産の「質」と「健全性」を重視する世界遺産活動の方向転換を示すものです。
これは、世界遺産条約の理念に基づき、その価値とブランドを長期的に守るための、より厳格で健全なプロセスへの転換点であると捉えられています。
なぜ導入されたのか?その背景と目的
プレリミナリー・アセスメントは、世界遺産登録プロセスの長年の課題を解決し、より効果的な遺産保護を目指すために導入されました。
その背景には、諮問機関と世界遺産委員会の間の評価の乖離という深刻な問題がありました。
登録プロセスの健全化と質の向上
これまでの世界遺産登録プロセスでは、推薦書の提出から登録決定まで約1年半という期間で審査が行われていました 。
しかし、この比較的短い期間では、推薦内容に不備があった場合の修正が困難であり、不登録や情報照会となるケースが少なくありませんでした 。
このような状況は、推薦国の時間と労力の多大な消費に繋がり、また、必ずしも質の高い遺産が登録されるとは限らないという懸念も生じさせていました。
プレリミナリー・アセスメントは、この事前評価を導入することで、登録可否の決定まで約4年かかる長期的な視点での準備を促します 。
この長期化されたプロセスは、推薦過程で発生する様々な問題を未然に防ぎ、世界遺産登録の健全化を図ることを目的としています。
これにより、推薦される遺産が真に顕著な普遍的価値を持ち、適切な保護管理体制が整っていることを、より確実にするための基盤が築かれます。
諮問機関の役割強化と評価の乖離是正
世界遺産委員会では、専門家集団である諮問機関(文化遺産はICOMOS、自然遺産はIUCN)が厳正な評価を行っても、委員国の代表(多くは役人)が専門的ではない判断で登録を決定してしまうケースがあり、評価の乖離が懸念されていました 。
この乖離は、世界遺産条約の理念や「世界遺産」というブランド価値を損なう可能性を秘めていました 。
プレリミナリー・アセスメントの導入は、この根本的な課題に対処するための戦略的措置です。
諮問機関が推薦前の段階から関与し、締約国と対話することで、より効率的な推薦に役立つだけでなく、諮問機関の役割が確実に増大します 。
これにより、専門家の知見を最大限に活用し、推薦内容を根本から改善することで、このような乖離を是正し、より適切な登録を促すことが期待されています。
この制度は、世界遺産制度全体の信頼性と権威を回復・強化するための重要な一歩と位置づけられます。
「アップストリーム・プロセス」との違いと義務化の意義
世界遺産登録プロセスには、プレリミナリー・アセスメント以外にも「アップストリーム・プロセス」という早期対話の仕組みがあります 。
しかし、両者には明確な違いがあります。アップストリーム・プロセスが「任意」であるのに対し、プレリミナリー・アセスメントは2027年以降「義務化」される点が大きく異なります 。
この義務化は、世界遺産登録のハードルを上げ、より質の高い物件が選定されることを期待するユネスコの強い意思の表れと言えるでしょう 。
プレリミナリー・アセスメントは、単なる手続きの追加ではなく、世界遺産登録プロセスの標準となることで、登録される遺産がより厳密な基準で評価され、その顕著な普遍的価値が国際的に認められるプロセスが強化されます。
プレリミナリー・アセスメントの具体的な流れと評価のポイント
プレリミナリー・アセスメントは、締約国が世界遺産登録を目指す上で、諮問機関との綿密な対話を通じて推薦書を磨き上げるための重要な機会を提供します。
そのプロセスは明確なスケジュールと評価のポイントを持っています。
申請から評価報告書受領までのステップと期間
プレリミナリー・アセスメントのプロセスは、以下のステップで進行します。
1.要請と対話の開始: 締約国は、暫定リストに記載されている物件を推薦する1年前までに、プレリミナリー・アセスメントを世界遺産センターに要請する必要があります 。この要請の締め切りは毎年9月15日と定められています 。要請が受理されると、その情報が諮問機関に報告され、締約国と諮問機関との間で本格的な対話が開始されます 。
2.諮問機関による調査: 要請受理後、諮問機関は10月から翌年9月まで約1年をかけて調査を行います 。この調査は、顕著な普遍的価値、完全性、真正性、そして保護・管理に関して、現地調査を伴わない「机上ベースの書類審査」が基本となります 。
3.事前評価報告書の発行: 調査の結果、具体的なガイダンス、アドバイス、勧告を含んだ「事前評価報告書(Preliminary Assessment Report)」が作成されます。この報告書は、翌年10月1日までに世界遺産センターを通じて締約国に送達されます 。
4.有効期間と推薦までの期間: 事前評価報告書は登録推薦書を提出する際に必要となり、その有効期間は最大5年です 。締約国は、報告書を受け取ってから登録推薦書を提出するまで、少なくとも12か月の期間を設けなければなりません 。もし5年目の2月1日までに推薦されない場合は、再度プレリミナリー・アセスメントを受ける必要があります 。
この長期にわたるプロセスは、締約国が推薦書を提出する前に、顕著な普遍的価値の証明、完全性・真正性の確保、そして最も重要な保護管理体制の整備に、より十分な時間をかけられることを意味します。
これは、短期間での準備不足による不登録リスクを低減する効果があると期待されています。
ICOMOS・IUCNによる書類審査の重要性
諮問機関であるICOMOS(国際記念物遺跡会議)は文化遺産、IUCN(国際自然保護連合)は自然遺産の専門家集団です 。彼らは、提出された書類に基づき、遺産の「保護・保全の専門家として厳密に評価」を行います 。
この書類審査は、推薦書の内容が世界遺産条約の求める基準(顕著な普遍的価値、完全性、真正性、保護管理計画など)に合致しているかを早期に確認し、不備があれば改善を促すためのものです 。
この段階で専門家からの詳細なフィードバックを得ることで、推薦国は本推薦に進む前に、推薦内容の根本的な欠陥や不備を露呈させ、修正する機会を得ることができます。
これにより、最終的な登録審査の質が向上し、世界遺産リスト全体の信頼性が保たれることが期待されます。
費用負担の仕組み
プレリミナリー・アセスメントの導入当初、費用負担が課題として挙げられていました 。
世界遺産委員会の作業部会の試算では、1件につき約230万円かかるとされています 。
この制度が義務のプロセスとなったため、費用は世界遺産基金から出すべきとされましたが、試算金額を考慮し、任意の金額での「自発的な費用負担」も締約国に求められることになりました 。
これは、全額を申請国が負担するアップストリーム・プロセスとは異なる点です 。
この費用負担の仕組みは、国家レベルでのコミットメントの高さを示す指標ともなり、推薦国が長期的にリソースを投入し、遺産保護に取り組む姿勢を促すものと考えられます
| 項目 | 詳細 | 期間 |
|---|---|---|
| 要請期限 | 毎年9月15日までに世界遺産センターへ要請 | 1年目 |
| 諮問機関による調査 | 要請受理後、ICOMOS/IUCNが書類審査を実施 | 10月~翌年9月(約1年) |
| 事前評価報告書提出 | 諮問機関から世界遺産センターへ提出 | 翌年10月1日まで |
| 報告書受領から推薦書提出までの最短期間 | 報告書の内容を反映させるための期間 | 最低12ヶ月 |
| 事前評価報告書の有効期間 | 推薦書提出に際しての報告書の有効性 | 最大5年 |
| 完全施行 | 2027年以降に推薦される物件から義務化 | 2028年の世界遺産委員会から |
この制度がもたらすメリットと課題
プレリミナリー・アセスメントは、世界遺産登録プロセスに新たな光をもたらす一方で、いくつかの課題も内包しています。
推薦書のブラッシュアップと登録成功率の向上
諮問機関からの早期のフィードバック(ガイダンス、アドバイス、勧告)は、推薦書の内容を「顕著な普遍的価値」の証明という観点から、より説得力のあるものにブラッシュアップする絶好の機会となります 。
これにより、本推薦時に不登録や情報照会となるリスクを低減し、登録成功率の向上が期待されます。推薦国にとっては、時間と労力の無駄を省き、より効率的なプロセスへと繋がる大きな利点があります。
長期的な遺産保護・管理への貢献
プレリミナリー・アセスメントは、推薦の初期段階から遺産の保護・管理体制の強化を促します。
諮問機関の専門的視点からの助言は、登録後の持続可能な管理計画の策定に大きく貢献します 。
世界遺産条約の理念は、単なる登録だけでなく、未来にわたる遺産の保護・保全と持続可能な開発にあります 。
この制度は、その理念をより深く実践するためのツールとなり得ます。
プロセス長期化などの課題
プレリミナリー・アセスメントの導入により、登録可否の決定まで約4年かかることになり、従来のプロセスよりも期間が大幅に長期化します 。
これは、推薦を目指す国や自治体にとって、より長期的なコミットメントとリソースの確保が必要となることを意味します。
また、費用負担についても、世界遺産基金からの拠出があるものの、自発的な負担が求められるため、一定の財政的負担が生じます 。
さらに、この事前評価を経ても、必ずしも登録が保証されるわけではありません。
彦根城の事例のように、評価は「登録の可能性がある」とされたものの、具体的な課題(例:大名統治システムの表現方法、シリアル推薦の可能性)が指摘されることもあります 。
これは、事前評価が「合格」ではなく「改善の余地」を示すものであることを物語っており、最終的な登録には、評価報告書の内容をいかに推薦書に反映させ、説得力を高めるかが引き続き重要であることを示唆しています。
プレリミナリー・アセスメントは、世界遺産登録プロセスの初期段階に「門番」を強化し、不適切な推薦を早期に排除することで、世界遺産リスト全体の質の維持と、条約の信頼性向上に寄与します。
諮問機関が推薦前に「顕著な普遍的価値、完全性、真正性、保護・管理」を机上ベースで厳密に評価し、具体的なガイダンスや勧告を与えることで、推薦内容の根本的な欠陥や不備が露呈しやすくなります 。
評価報告書の内容によっては、推薦国が本推薦を「無理はしない」と判断する可能性も示唆されており 、登録の可能性が低い物件が、時間と費用をかけて本推薦に進むことを抑制する効果があります。
これにより、世界遺産委員会が審議する案件の質が向上し、結果として世界遺産というブランドの価値と権威がより強固に保たれることが期待されます。
表2:プレリミナリー・アセスメントと従来の推薦プロセス、アップストリーム・プロセスの比較
| 項目 | プレリミナリー・アセスメント | 従来の推薦プロセス(本推薦) | アップストリーム・プロセス |
|---|---|---|---|
| 導入時期 | 2021年決定、 2023年試験開始 | 世界遺産条約採択以来 | 2010年代 |
| 義務/任意 | 2027年以降義務化 | 義務 | 任意 |
| 評価主体 | 諮問機関(ICOMOS, IUCN) | 諮問機関(ICOMOS, IUCN) | 諮問機関+世界遺産センター |
| 現地調査の有無 | 原則なし(書類審査) | あり | 必須ではない |
| 費用負担 | 世界遺産基金+任意で締約国負担 | 締約国負担 | 全額申請国負担 |
| 主な目的 | 問題の未然防止、評価乖離是正、推薦の健全化 | 顕著な普遍的価値の評価、登録可否決定 | 早期対話、推薦の質の向上 |
| プロセス期間(要請/提出から登録決定まで) | 約4年 | 約1年半 | 不定 |
日本の事例:彦根城の挑戦と未来への展望
日本においても、この新しい制度を積極的に活用し、世界遺産登録を目指す動きが始まっています。その代表例が、滋賀県の「彦根城」です。
日本初のプレリミナリー・アセスメント活用事例
彦根城は、日本で初めてプレリミナリー・アセスメントを用いて世界遺産登録を目指す資産となりました 。
彦根城は1992年から世界遺産暫定リストに記載されており、長年にわたりその登録への期待が寄せられてきました 。
この新しい制度をいち早く活用することで、より確実な登録を目指すという日本の積極的な姿勢が示されています。
彦根城の評価結果と今後のスケジュール
彦根城は2023年9月15日までにプレリミナリー・アセスメントの申請書をユネスコに提出しました 。
その結果概要が令和6年10月に公表され、彦根城の「顕著な普遍的価値」について、「世界遺産登録の可能性がある」と評価されました 。
この評価は、国内推薦を目指す上で大きな前進となります。
彦根城は、江戸時代の「藩」や「大名」という切り口から、250年間の安定と平和を支えた大名統治システムとしての価値を訴えています 。
今後の想定スケジュールとしては、令和7年度(目標)に国内推薦を獲得しユネスコに推薦書を提出、令和8年度(目標)にイコモスによる現地調査、そして令和9年度(目標)に世界遺産登録を目指しています 。
ただし、評価報告書では、「彦根城」単独で大名統治システムを十分に表現できるか、シリアル推薦の可能性についても注意深く検討する必要があるといった具体的な課題も指摘されています 。
これは、事前評価が「合格」ではなく「改善の余地」を示すものであることを物語っています。
彦根城の世界遺産としての価値を分かりやすく伝えるため、空撮映像やイラストを用いたPR動画も作成・公開されており 、地域社会の関心を高める取り組みも進められています。
彦根城の事例は、プレリミナリー・アセスメントが「登録の可能性」を示す一方で、具体的な課題を明確にし、その克服には推薦国・地域の継続的な努力と戦略的な対応が不可欠であることを示唆しています。
事前評価が単なる「合否判定」ではなく、推薦の弱点を洗い出し、改善を促す「詳細な診断書」としての役割を果たすことが明確になります。
これらの課題を克服するためには、推薦書の内容をさらに精緻化し、必要であれば構成資産の再検討や保護管理体制の強化など、多岐にわたる継続的な努力が求められます。
彦根城の事例は、事前評価が提供するフィードバックを最大限に活用し、粘り強く課題解決に取り組むことの重要性を私たちに教えてくれます。
まとめ:世界遺産を守り、未来へつなぐプレリミナリー・アセスメント
プレリミナリー・アセスメントは、世界遺産登録プロセスにおける画期的な進化であり、その導入は世界遺産条約の理念を未来へとつなぐための重要な一歩です。
この制度は、推薦段階での問題点を早期に特定し、諮問機関の専門的な知見を最大限に活用することで、より質の高い世界遺産登録を促進します。諮問機関と世界遺産委員会の評価の乖離を是正し、世界遺産というブランドの信頼性と権威を保つ上で不可欠な役割を担っています。
プロセスが長期化し、費用負担も伴いますが、これは登録後の遺産保護・管理の持続可能性を確保するための投資と捉えることができます。
彦根城の事例が示すように、プレリミナリー・アセスメントは、登録への可能性を広げるだけでなく、推薦国・地域が直面する具体的な課題を明確にし、その克服に向けた継続的な努力を促すものです。
世界遺産は、単に美しい景観や歴史的建造物であるだけでなく、その背後にある人類の歴史、文化、自然の営みを未来に伝える「生きた証」です。
プレリミナリー・アセスメントは、その「証」が真に普遍的な価値を持ち、永続的に保護されるための、未来志向の制度と言えるでしょう。
この新しい道筋を通じて、さらに多くの素晴らしい遺産が世界遺産リストに加わり、私たち人類共通の宝として次世代へと受け継がれていくことを期待します。

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