| 国 | イラン・イスラム国 |
|---|---|
| 登録区分 | 文化遺産 |
| 世界遺産登録年 | 2015 |
| 登録基準 | (ⅰ)(ⅱ)(ⅲ)(ⅳ) |
| その他の区分 | |
| 公式テキストページ | 中巻23p |
| 英文タイトル | Susa |
イラン南西部のフーゼスターン州に、古代オリエント史において極めて重要な役割を果たした都市の遺跡、スーサがあります。
紀元前5千年紀から西暦13世紀に至るまで、約7000年にもわたり人々が暮らしたとされるこの都市は、エラム文明、アケメネス朝ペルシャ、そしてバビロニアやメソポタミアといった様々な文明の興亡をその土中に刻み込んできました。
2015年に世界遺産に登録されたスーサは、まさに古代オリエントの「記憶の宝庫」と言えるでしょう。
このブログ記事では、スーサの壮大な歴史、その文化的・考古学的な重要性、そして世界遺産としての価値について、深く掘り下げていきます。
古代の東西交易の要衝で繰り広げられた物語に耳を傾けてみましょう。
スーサの歴史:7000年の時を刻む都市
スーサの歴史は非常に古く、その起源は紀元前5千年紀にまで遡ります。
乾燥したイラン高原とメソポタミアの湿潤な平野を結ぶ、肥沃なカルヘ川とシャウル川の間に位置するスーサは、古くから交易の要衝として栄えました。
エラム文明の中心地

スーサが最初にその存在感を世界に示したのは、エラム文明の中心都市としてです。
紀元前3千年紀から紀元前6世紀にかけて栄えたエラムは、独自の文字(原エラム文字)や行政システムを持ち、メソポタミア文明と頻繁に交流し、時には対立する勢力でした。
スーサはエラムの王都として、政治、経済、文化の中心地としての役割を担い、シュメールやアッカド、バビロニアといったメソポタミアの強大な王国と覇を競いました。
特に紀元前2千年紀には、メソポタミアを一時的に支配するなど、その勢力は絶頂期を迎えます。
しかし、アッシリア帝国の侵攻により、紀元前640年頃にスーサは壊滅的な打撃を受け、エラム文明は衰退の一途をたどります。
アケメネス朝ペルシャの都として再興

エラムの衰退後、紀元前6世紀半ばに登場したのが、キュロス大王率いるアケメネス朝ペルシャ帝国です。
キュロス大王はメソポタミアをも制圧し、広大な帝国を築き上げます。
彼の後を継いだダレイオス1世は、スーサの戦略的な重要性に着目し、新たな首都の一つとして大規模な再建と拡張を行いました。
スーサは、アケメネス朝の「四大首都」の一つ(他の3つはパサルガダエ、ペルセポリス、エクバタナ)とされ、特に冬の宮殿として、また東西交易路(王の道)の主要な拠点として、重要な役割を担いました。
ダレイオス1世は、ペルセポリスと同様に、帝国全土から最高の素材と職人を集めて、壮麗な宮殿を建設しました。
アレクサンドロス大王の征服とその後

紀元前331年、アケメネス朝ペルシャはアレクサンドロス大王によって滅ぼされます。
スーサもまた、アレクサンドロスの手によって陥落し、莫大な財宝が略奪されました。
しかし、都市としてのスーサはその後も存続し、セレウコス朝、パルティア朝、ササン朝ペルシャといった後続の王朝のもとでも繁栄を続けます。
ローマ帝国とササン朝ペルシャの抗争の舞台となり、またシルクロードの要衝として、様々な文化が交錯する国際都市として機能しました。
イスラム教の台頭後も、スーサは重要な都市であり続けましたが、モンゴル帝国の侵攻によって最終的に衰退し、廃墟となっていきました。
スーサの考古学的価値:土中に眠る歴史の層
スーサの遺跡は、長期間にわたる人類の居住を示す「テル」(人工の丘)として、幾重にも重なる考古学的層を形成しています。
フランスの考古学チームが19世紀末から本格的な発掘調査を開始し、現在も継続されています。
主要な発見としては、以下のものが挙げられます。
アパダーナ(謁見の間)とダレイオス1世の宮殿
アケメネス朝時代の遺構では、ダレイオス1世が建設した壮大な宮殿の一部であるアパダーナの基部と、その巨大な柱の残骸が確認されています。
ペルセポリスのアパダーナと同様に、広大な謁見の間として使用され、各地からの使節団を受け入れたと考えられています。宮殿の壁には、ライオンや有翼の雄牛のレリーフ、そして王の権威を示す碑文が飾られていたとされています。
アケメネス朝以前の遺構

地中深くからは、エラム文明時代のジッグラト(階段ピラミッド)や神殿、王宮の跡、そして文字が刻まれた粘土板などが多数発見されています。
特に、メソポタミアのウル第三王朝の王ウル・ナンムの碑文、そして有名なハンムラビ法典の石碑がスーサで発見されたことは、古代メソポタミアとエラムの深い関係を示す重要な証拠となりました(ハンムラビ法典の石碑は現在ルーヴル美術館に所蔵)。
これらの発見は、スーサがエラム文明の中心地であり、メソポタミア文化の影響を強く受けていたことを証明しています。
また、スーサで出土した土器や印章、彫刻などは、エラム文化の独自の芸術性と技術の高さを物語っています。
イスラム時代の遺構
遺跡の上層からは、イスラム時代のモスクや住宅、市場の跡なども発見されており、スーサがイスラム時代にも重要な都市として機能していたことを示しています。
スーサの遺跡は、このように異なる時代の文明の層が重なり合っており、その発掘調査は古代オリエントの歴史を解明する上で不可欠な情報を提供し続けています。
世界遺産としての価値と保護

スーサは、2015年に以下の基準を満たして世界遺産に登録されました。
(i) 人類の創造的才能を示す傑作: エラム文明期、アケメネス朝期に建設された建築物や芸術作品は、それぞれの時代の技術と芸術性の傑作です。
(ii) 文化的価値の交流を示すもの: スーサは、メソポタミア、エラム、ペルシャ、地中海世界といった多様な文明圏が交流し、影響を与え合った中心地でした。特にアケメネス朝時代には、異なる文化の要素が融合し、新たな帝国様式が形成されました。
(iii) 現存する、または消滅した文明や文化の唯一の証拠: エラム文明という、メソポタミアとは異なる独自の文明の存在と、その発展を伝える貴重な証拠です。また、アケメネス朝初期の首都の一つとしての役割も示しています。
(iv) 人類の歴史上重要な時代を示す建築、技術の集合体、あるいは景観: 紀元前5千年紀から中世に至るまで、都市が継続的に発展し、古代オリエントにおける主要な勢力の変遷を物語る遺構が層として残されています。
スーサの遺跡は、その長期間にわたる歴史と多様な文明の痕跡が、極めて高い真実性(Authenticity)と完全性(Integrity)をもって保存されています。多層的な遺跡であるため、地中に眠る未発掘部分の保護も重要な課題です。
現在、イラン文化遺産・観光・手工芸省が、国際的な協力のもとで発掘調査、保存修復、そして遺跡の管理を行っています。
湿度の高い気候条件、地下水位の上昇、周辺地域の農業開発などが、遺跡の保存における主な課題とされています。
スーサが私たちに語りかけるもの

スーサは、まさに「時間の都市」です。その土壌の層の一つ一つに、遠い昔に栄え、そして滅んでいった文明の記憶が刻まれています。
メソポタミアとイラン高原、そしてさらに東方や西方を結ぶ結節点として、人、物、情報、そして文化が絶えず交錯してきた場所。
エラムの女王が歩いた道、アケメネス朝の王が謁見した広間、そして何世紀にもわたって人々が暮らし、愛し、争い、そして祈りを捧げてきた都市の営み。それらすべてが、スーサの土中に眠っています。
この壮大な遺跡を訪れることは、古代オリエントの歴史の深淵に触れる体験です。
スーサは、文明が生まれ、成長し、そして衰退していく過程、そして異なる文化がいかに交流し、互いに影響を与え合ってきたかを教えてくれます。
人類の歴史のロマンに思いを馳せる旅に、スーサは最適な場所の一つと言えるでしょう。

コメント