国境を越える遺産の魅力と国際協力の力
はじめに:世界遺産が示す、もう一つの「普遍的価値」
世界遺産は、地球上の文化遺産や自然遺産の中で「顕著な普遍的価値(Outstanding Universal Value: OUV)」を持つものとして、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)によって登録・保護されています。
この価値は、特定の国や地域だけでなく、全人類にとってかけがえのないものであると認識されています 。
世界遺産は、過去から受け継ぎ、現在を生きる私たちと共にあり、未来の世代へと引き継ぐべき、かけがえのない生命とインスピレーションの源泉です 。
しかし、人類の歴史の中で引かれてきた人為的な国境線によって、本来一体であるべき文化や自然の価値が分断されることがあります。
そこで登場するのが「トランスバウンダリー・サイト」という概念です。
なぜ、ある遺産は複数の国にまたがって登録されるのでしょうか?
そこには、単なる地理的な連続性以上の、深い意義と国際協力の物語が隠されています。
本稿では、このユニークな世界遺産の概念を深掘りし、その魅力と国際協力がもたらす力を探ります。
1. トランスバウンダリー・サイトとは?その定義と特徴
トランスバウンダリー・サイトは、世界遺産制度の中でも特に国際協力の精神を強く体現する分類です。
その定義と、関連する概念との違いを理解することは、この遺産群の特異性を把握する上で不可欠です。
定義:国境を超える遺産
トランスバウンダリー・サイト(Trans-boundary Site)とは、文字通り「国境を超える遺産」を指します。
これは、一つの顕著な普遍的価値を持つ遺産が、複数の国の領土にまたがって存在する場合に、関係締約国が共同で世界遺産として登録・保護するものです 。
ユネスコの世界遺産条約の運用指針(Operational Guidelines)によれば、このような遺産は単一の物件として世界遺産リストに記載され、関係する締約国による共同推薦が必要とされます 。
この概念は、当初、広大な山脈や湿地帯など、国境を越えて広がる自然遺産に適用されることが多かったですが、後に交易路や建築様式など、かつて一つの文化圏であった地域が国境で分断された文化遺産にも用いられるようになりました 。
その主な目的は、保有国間で協力し、遺産の保護・保全を効果的に行うことにあります 。
シリアル・ノミネーション・サイトとの違い
トランスバウンダリー・サイトを理解する上で、しばしば混同されやすいのが「シリアル・ノミネーション・サイト(連続性のある遺産)」です。
シリアル・ノミネーション・サイトは、文化や歴史的背景、自然環境などが共通する複数の資産を、全体として「顕著な普遍的価値」を持つ一つの世界遺産として登録する考え方です。
個々の構成資産がそれぞれ普遍的価値を持つ必要はなく、全体としてその価値を有していれば良いとされます 。例えば、日本の「明治日本の産業革命遺産」や「古都京都の文化財」などがこれに該当します 。
これに対し、トランスバウンダリー・サイトは、このシリアル・ノミネーション・サイトの「国際版」と位置づけられます。
つまり、複数の資産が共通の価値を持ち、かつそれが国境をまたいで存在する場合に、トランスバウンダリー・サイトとなるのです 。
シリアル・ノミネーションが主に「国内の連続性」を指すのに対し、トランスバウンダリー・サイトは「国際的な連続性」に焦点を当てています。
重要な点として、国境をまたぐ遺跡であっても、それぞれの国が異なる遺産名で個別に登録している場合は、トランスバウンダリー・サイトとはみなされません 。
これは、単なる地理的な連続性だけでなく、国際的な合意と統一された保護・管理の意思が不可欠であることを示唆しています。
この厳格な基準は、遺産の価値が国境によって損なわれることを防ぎ、真に「普遍的」なものとして保護するためのユネスコの哲学を反映しています。
世界遺産条約が採択された当初は、単一の巨大な遺産が登録の中心でしたが、より広範で連続的な、あるいは分散した価値を持つ遺産も保護対象とするようになったことで、この制度は進化を遂げています。
これは、世界遺産条約が「地球全体を一つの遺産」と捉える方向性への一歩とも解釈できます 。
共同管理の推奨
トランスバウンダリー・サイトの登録においては、関係締約国が共同で登録推薦書を作成し、遺産全体の管理を監督するために「共同管理委員会・機関」を設立することが強く推奨されています 。
この推奨は、異なる法制度や行政システムを持つ国々が連携し、遺産を一体的に保護するための基盤となります。
複数のスニペットで「共同での保護・保全」「共同推薦書」「共同管理委員会・機関」が繰り返し強調されているのは、単なる物理的な連続性だけでなく、国際的な合意と統一された管理体制が、トランスバウンダリー・サイトとして認められるための本質的な要件であることを示しています。
この統一された管理体制は、各国の保護政策の整合性を確保し、遺産全体の完全性を守る上で不可欠です 。
表1: トランスバウンダリー・サイトとシリアル・ノミネーション・サイトの比較
| 項目 | トランスバウンダリー・サイト | シリアル・ノミネーション・サイト |
|---|---|---|
| 定義 | 国境を越えて存在する遺産 | 連続性のある遺産 |
| 地理的範囲 | 複数の国の領土にまたがる | 単一国内に点在 |
| 普遍的価値の対象 | 全体として顕著な普遍的価値(個々の構成資産が独立して持つ必要はない) | 全体として顕著な普遍的価値(個々の構成資産が独立して持つ必要はない) |
| 管理体制の推奨 | 関係締約国による共同推薦、共同管理委員会・機関の設立を強く推奨 | 統一的な管理計画の策定 Google スプレッドシートにエクスポート |
2. 国境を越える遺産の意義:平和と持続可能性への貢献
トランスバウンダリー・サイトの存在は、単に地理的な特徴を示すだけでなく、世界遺産条約の根底にあるより深い理念を体現しています。
それは、文化や自然は人為的な国境に縛られず、人類共通の財産として国際的な協力のもとで守られるべきだという考え方です。
人為的国境を超えた価値の保護
世界遺産条約の理念は、人類共通の遺産を保護し、将来の世代に継承することにあります 。
トランスバウンダリー・サイトは、この理念を最もよく体現しています。人為的に引かれた国境線にとらわれず、文化や自然の連続性を一体として保護・保全することが目的です 。
特に自然遺産においては、「生態系に国境はない」という考え方がその基盤にあります 。
渡り鳥や回遊性生物の保全、広大な山岳生態系や湖沼・海域の共同管理には、一国だけの努力では限界があり、関係する国家間の国際協力が不可欠です 。
国際協力と平和構築への貢献
トランスバウンダリー・サイトの登録は、関係国間の協力関係を促進し、国際平和に貢献するとユネスコは歓迎しています 。
これは、遺産が国境をまたぐことで、関係国は協力せざるを得ない状況に置かれ、共通の目標(遺産保護)を通じて、これまで対立していた国々にも対話の機会を与え、相互理解を深めるきっかけとなるためです。
例えば、エクアドルとペルーは、長年にわたり領土紛争を繰り返してきましたが、1995年の大規模な軍事衝突後、自然保護区の共同設置に至りました。
これが「コンドル-クツク保全回廊平和公園」として結実し、自然保護を懸け橋として領土問題を解決した歴史上初の記念碑的な事例となりました 。
同様に、アメリカとカナダにまたがる「ウォータートン-グレイシャー国際平和公園」も、両国の友好平和を祈念して1932年に設立され、後に世界自然遺産に登録されました 。
このような越境保護区の設置と共同管理は、科学的な生態系管理の正当性だけでなく、国家間の友好平和、さらには領土問題の段階的解決といった安全保障上の発展可能性も秘めています 。
遺産を「人類共通の財産」と位置づけることで、国家主権の枠を超えた共通の責任感が醸成され、政治的緊張を緩和し、より広範な協力へと発展する基盤となるのです。
これは、ユネスコが掲げる「文化芸術は国境を越えた共感を生み、『心の安全保障』として平和の礎となる」という考え方とも合致し、遺産保護が国際関係における「予防的平和」の具体的な実践例であることを示しています 。
持続可能な開発への示唆
世界遺産条約の理念は、持続可能な開発と深く結びついています。遺産の保護と保全は、持続可能な開発に大いに資すると考えられています 。
トランスバウンダリー・サイトにおける共同管理は、環境資源の持続可能な利用と環境保全の促進を目指す「人間と生物圏計画(MAB計画)」の理念とも共通しています 。
これは、現代社会が直面する気候変動や生物多様性の喪失といった地球規模の課題に対し、国境を越えた協力が不可欠であるという認識に基づいています。
トランスバウンダリー・サイトの共同管理体制は、異なる法制度や文化を持つ国家が、共通の目標のために連携する実践的な方法論を示しており、これは他の地球規模課題に対するグローバル・ガバナンスのモデルケースとして機能し得るものです。
3. 世界を繋ぐトランスバウンダリー・サイトの具体例
世界には、その顕著な普遍的価値が国境を越えて広がる、多くのトランスバウンダリー・サイトが存在します。
ここでは、文化遺産と自然遺産から代表的な事例を挙げ、その国際的な繋がりを具体的に見ていきましょう。
これらの事例は、地理的・歴史的・生態学的な「連続性」が、人為的な国境線よりも上位の価値として認識されていることを示しています。
文化遺産事例
ル・コルビュジエの建築作品:近代建築運動への顕著な貢献
- この遺産は、フランス、ドイツ、ベルギー、スイス、アルゼンチン、インド、日本の7カ国に点在する、20世紀の偉大な建築家ル・コルビュジエの17の建築作品群です 。
- 特筆すべきは、これが単なるトランスバウンダリー・サイトであるだけでなく、世界初の「トランスコンチネンタル・サイト」(構成資産が複数の大陸にまたがる遺産)として登録された点です 。これは、ル・コルビュジエが提唱した近代建築の概念が、物理的な国境や大陸の壁を越えて世界中に広がり、実践されたことを示しています 。この登録は、特定の文化や思想が国境や大陸を越えて伝播し、それぞれの地域で独自に適応・発展した様子を世界遺産が評価するようになったことを示唆しており、均質な価値観の押し付けではなく、多様な文脈における普遍性の発掘という、世界遺産制度の成熟を反映しています。
- 日本においては、東京・上野にある国立西洋美術館がその構成資産の一つです 。
シルクロード:長安―天山回廊の交易路網
- 中国、カザフスタン、キルギスの3カ国にまたがる文化遺産であり、ユーラシア大陸を東西に結んだ壮大な交易路のネットワークの一部です 。
- この登録は、異なる文化や文明が交流し、相互に影響を与えながら繁栄した歴史的価値を共有する好例であり、広大な地理的範囲にわたる文化遺産の保護における多国間協力の重要性を再認識させるものです 。
ヨーロッパの偉大なスパ・タウン
- イギリス、イタリア、オーストリア、チェコ、ドイツ、フランス、ベルギーの7カ国にまたがる11の歴史的な温泉都市群です 。
- 何世紀にもわたり、天然の鉱泉や温泉を利用した健康・保養文化が育まれた場所であり、ヨーロッパにおける「スパ現象」の物語を伝えています 。各都市はそれぞれ独自の個性を持ちながらも、スパ建築、飲泉所、治療施設、遊歩道など、共通の特徴的な都市形態と建築様式を有しており、これらを一体として保護・管理しています 。
自然遺産事例
ワッデン海
- デンマーク、ドイツ、オランダの3カ国にまたがる世界最大の干潟です 。
- この広大な湿地帯は、1万種以上の生物の生息地であり、毎年1千万羽以上の渡り鳥が餌を求める中継地となるなど、他に類を見ない豊かな生態系を育んでいます 。
- 3カ国は「ワッデン海連邦事務局(CWSS)」を設立し、共同で保護活動に取り組んでいます。各国の自然環境省が同額の資金を提供し、共通の目標に向かって協力することで、持続的な保全活動を可能にしています 。ワッデン海のような自然遺産における共同管理の成功は、生態系の回復力と、それを支える多国間の協調が相乗効果を生み出すことを示しています。自然保護の成果は、政治的な安定と経済的な持続可能性にも寄与し、地域全体のレジリエンスを高める好循環を生み出しています。
ヴィクトリアの滝(モシ・オ・トゥニャ)
- ザンビアとジンバブエの国境に位置する、世界最大級の滝です 。
- その壮大な自然美と生態系の重要性から、両国が共同で世界自然遺産として登録し、保護・管理を行っています 。
4. 共同管理の挑戦と未来への展望
トランスバウンダリー・サイトの成功は、関係国間の緊密な協力にかかっています。
しかし、その実現には様々な挑戦が伴います。
これらの課題を乗り越え、遺産を未来へ繋ぐための共同管理の重要性と、持続可能な観光開発が果たす役割について考察します。
共同管理における課題
- 異なる法制度と文化: 複数の国にまたがるため、それぞれの国の法制度、行政システム、文化的な慣習の違いが、統一的な管理計画の策定や実施を困難にすることがあります。主権の問題も絡み、合意形成に時間を要することもあります 。異なる法制度は、資金の移動や人材の交流を複雑にし、共通の保護基準の適用を妨げる直接的な原因となります。
- 資金と人材の確保: 遺産の保護・保全には多大な資金と専門人材が必要ですが、複数の国にまたがる場合、その費用負担の分担や、専門人材の育成・配置、さらには国境を越えた連携体制の構築が課題となります 。
- 観光客管理と地域社会の関心: 世界遺産登録は観光客の増加をもたらし、地域経済に恩恵をもたらす一方で 、オーバーツーリズムによる環境負荷やマナーの問題、解説の多言語化の不足、地域コミュニティの関心の低下や若い世代の参画不足といった問題を引き起こす可能性もあります 。特に国境を越える観光客の管理は、各国の観光政策の違いから複雑化しやすい側面があります。
共同管理委員会・機関の役割と重要性
これらの多岐にわたる課題を克服するためには、関係締約国が共同で設立する管理委員会や機関が極めて重要です 。
この委員会は、各国政府の代表、専門家、地域住民など多様なステークホルダーが参加し、情報共有、共通の管理計画の策定、紛争解決メカニズムの提供、資金調達の協力、人材育成プログラムの調整などを行います 。
このような共同管理委員会は、異なる法制度や文化の違いを乗り越え、共通の目標(遺産の保護と普遍的価値の維持)に向けて調整を行うための「ハブ」として機能します。
これは、単なる行政的な調整を超え、互いの主権を尊重しつつ、共通の利益を最大化するプロセスであり、遺産全体としての「顕著な普遍的価値」と「完全性」が将来にわたって維持されることを保証します 。
持続可能な観光開発と地域経済への貢献
世界遺産登録は、国際的な認知度とブランド価値を高め、インバウンドを含む来訪者の増加を通じて地域経済の活性化に繋がる可能性があります 。
しかし、その経済効果は一過性のものではなく、遺産の保護と活用を両立させた「持続可能な観光地づくり」が求められます 。
地域住民の積極的な関与(雇用機会の創出など)、環境教育、エコツーリズムの推進などが、持続可能な観光の鍵となります 。
トランスバウンダリー・サイトの場合、観光客の移動が国境を越えるため、一方の国での観光客管理の不備が、もう一方の国の遺産にも悪影響を及ぼすという連鎖反応が起こりやすい側面があります。
この負の側面を克服し、長期的な経済効果と遺産保護を両立させるためには、国境を越えた協調的な観光管理計画と、地域社会の積極的な参加を促すことが重要です。
これにより、観光が単なる経済活動ではなく、異なる文化を持つ人々が交流し、相互理解を深める「草の根外交」の場を提供し、国際的な友好関係を育む「ソフトパワー」としての役割も担うことになります。
まとめ:国境を越えて守り継ぐ、人類共通の宝
トランスバウンダリー・サイトは、単なる地理的な境界を越えるだけでなく、文化、歴史、生態系の連続性を尊重し、人類共通の「顕著な普遍的価値」を未来へ繋ぐための重要な概念です。
その登録と保護は、関係国間の緊密な国際協力と共同管理体制によって支えられており、これは紛争の予防や平和構築にも貢献する、世界遺産条約の崇高な理念を体現しています。
ル・コルビュジエの建築作品が示す「トランスコンチネンタル・サイト」の登場は、世界遺産が物理的な境界を超え、思想や芸術といった普遍的な価値の広がりをも包摂するようになったことを示唆しています。
また、ワッデン海やシルクロードのような事例は、国境や大陸を越えて共有される価値の多様性と、それを守り継ぐ国際社会の努力の証です。
異なる法制度や文化、経済状況といった多岐にわたる課題を乗り越え、共同で遺産を管理するプロセスは、国際社会が直面する様々なグローバル課題への解決策を見出すヒントを与えてくれます。
また、持続可能な観光開発を通じて、地域社会に経済的恩恵をもたらしつつ、文化交流を促進する役割も担っています。
私たち一人ひとりがこれらの国境を越える遺産に関心を持ち、その保護活動を支援することが、人類共通の宝を守り、分断されがちな現代社会において国際協調と平和、そして持続可能な未来を築くための重要な一歩となるでしょう。

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